(´;ω;`)ブワッ

飛ばし読みで読了。 「幼い二人の子供を残して死なねばならない無念を綴っている」 この子を残して: 永井 隆: Kindle
nilog: 飛ばし読みで読了。 「幼い二人の子供を残して死なねばならない無念を綴っている」 この子を残して: 永井 隆: Kindle (2015-10-02)

放射線技師であった著者は過酷な業務による被曝により白血病となり、さらに長崎に投下された原子爆弾によって被爆し、妻を亡くす。自らの身体を研究材料として放射線の影響を研究しながらも、幼い二人の子供を残して死なねばならない無念を綴っている。

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Kindle で青空文庫版が無料0円で読める。ざっと飛ばし読みして、気になる箇所にハイライト機能を使って、後からさくっと抜き書き。

以下に、ハイライトした箇所を列挙しておく。

「母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか」

「私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか」

「――そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する大学は、わが愛する学生もろとも一団の炎となっていった。わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわが家の焼け跡から拾われねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定よりも早く動けない体となってしまった。――ありがたいことには、たまたま三日前に、山のばあさんの家へ行かせた二人の子供が無傷で助かっていた」

「子供は親にすがりつきたがるものである。学校から帰れば、タダイマッ、と叫んで飛びつきたかろう。しかし私に飛びついたら、脾臓はたちどころにパンクするに決まっている。それで子供たちは主治医の朝長先生から「お父さんのそばへ寄ってはいけません!」と言いつけられているのだ。子供たちはこの言いつけをよく守り、そばへ寄りたい、じゃれつきたい、すがりつきたい、甘えたい想いをおさえ、いつも少し離れて私と話をする。私のほうも、世の常の父親のように、この子を抱き上げたり、ひっくり返して押さえつけたり、くすぐったり、キャッキャッ言わせて遊びたい。けれどもそんなふうにしている子供がいつしか慣れて、こちらがうっかり眠っている時などに、いきなりドンと飛びついたり、寝床のすぐ傍らでふざけ合って私の上に倒れかかって来ぬともかぎらない。それを防ぐために私は心をことさら冷たくして、寝床のまわりに本を積み、薬壜を並べて、愛情を隔てるバリケードを築いている。」

「もう一人の親――母がおりさえすれば、この子も父をあきらめて、その母にとりすがるのであろうに、その母は亡く、母のにおいの残った遺品もなく、面影をしのぶ写真さえ焼けてしまって一枚もない」

「全国の孤児収容所の子供の逃亡率は半分以上だとのことである。半分以上の子供たちは、逃げ出しては捕らえられ、入れられてはまた飛び出すという。ラジオや新聞で、「浮浪児狩り」という言葉が用いられた」

「私はすでにイク子、ササノの二人の子を天国に送った。ありし日のあどけなさは今だに目から消えない。白百合の花に埋まって送られていったあの子。……あの子がその死病にかかったとき、他人の子の同じ病気に向かっては落ち着いて診察もし治療もする医者でありながら、わが子の小鼻を動かしてあえぐ様を見ては聴診器も注射器も手につかず、ただおろおろとするばかりの一途の私の感情であった」

「腹を痛めた実の母の愛と、母性的愛情とはちがう。収容所の「いわゆるお母さん」がおやつにチョコレートをくれるのよりも、むかしの母が「今日は何もないのヨ」と言いながら、抱っこしてほほずりしてくれた思い出のほうがうれしいのだ」

「――大きくなったものだ。もう学校へ行くようになった。あの日、まだ五つだった。近所の子供に「うちのお母さんも死んだんだよ」と自慢していたが。何も知らなかったこの子が、もう字を習うようになる。あの日着ていたもんぺもいまは膝までしかない。しかもすっかり擦り切れている。それがたった一つの母の手縫いの形見だ。もう着られない」

「「ただいまっ」 といつもの元気のいい声がした。しかし今日に限って、ばたばた駆けこんで来ない。どうしたのだろうと私は首を枕からもたげ、ガラス越しに見た。  カヤノが庭へはいって来た。両手に何かを持って、一心にそれを見つめ、すり足でしずかにしずかに歩いてくる。非常に用心ぶかい足の進め方だ。あんな調子で学校から帰ってきたのなら二十分もかかるはずだ。いつもなら三分もかからぬ、ついそこなのだが。  ようやく私の病室へたどりつき、おえんがわに両手に持ってきたものを置いたのを見ると、学校給食のおわんである。カヤノはおえんがわに上り、またおわんを両手に持ち上げ、ランドセルを背負ったまま病室へ入ってきた。目はやっぱりおわんから離さない。その表情も、その全身もすっかり緊張している。たった二、三歩のところをすり足で、おわんが揺れないように用心ぶかく私に近づいてきた。私は手をのばした。その手におわんを無事に手渡したとたん、カヤノの鼻から大きな息がもれた。これまで息もつめて来たのだったろう。顔を上げ、私を見てにっこり笑った。 「あのネ、門を出るところで二年生におされて、こぼしたの」 と、いかにも惜しそうに言った。  おわんの中を見ると、こぼれずに残った、わずか二口足らずのパイン・ジュースが入っていた。 「今日の給食はネ、ひと口いただいてみたら、とてもおいしかったもんだから……さあ、お父さん、おあがりよ、おいしいのよ」

「あの二人の子供の死が、このごろいよいよ鋭く私の良心を責める。あの当時はむしろいいことをしてやったとさえ思っていたのだが、いまではわが子のことと思い合わせて、どうも気にかかって仕方がない。どうせ死ぬべき重い症状ではあったが、私に心の底から救ってやりたいとの気持ちのなかったことが、なんとしても気にかかる」

「一人は女の子で四歳。父は戦死して、母ひとりの手で育てられていたが、その母は、原子爆弾の落ちたとき、その子をわが身でかばって伏せたまま、倒れかかった柱に頭を割られて死んでいた。子はかすり傷ひとつ負わず救い出されたのだった。お母、お母と夜どおし病室にあてた土間で泣いて捜していたが、六日目から急に弱って血便を出し、熱を発した。私はそれを診察して、これはもう助からぬ、とすぐ予後を判定した。そして、この女の子は死ぬほうがかえって身の幸福だと思った。父も母もない孤児、しかもわずか四歳。世間のやっかい者として、つれない一生を送らねばならぬ身の上だ。世間の苦も知らぬうちに、天国へ召され、楽園で亡き父母に会うほうがよっぽど幸せだ。母はこの子を助けたいばかりに、柱の倒れかかる寸前、この子を腹の下にかばって、身代わりになってはくれたけれど、そうしてせっかく生き長らえた一生が果たして幸福なのであろうか? 早くお母さんのあとを追うて天国へ行くほうがいいだろう。――私はそう思ったものだから、治療も通り一ぺんにして、あまり身を入れなかった。女の子はそれから四日後に死んだ」

「もう一人は五歳の男の子だった。私生児だったのである。父親が出征したあとで、生まれて初めてそんな女性のあったことがわかり、いざこざがあって、手切金を渡し、子供を父親の実家に引き取って育てていた。実家では血がつながってはいるし、子供に責任はないので皆でよくかわいがって無事に育ててはいたが、将来は結局何かいざこざのもととなる存在であった。父親が復員してきて、新しく嫁を迎えるときに確かに妨げになる子であった。この子は原子爆弾のとき浅い防空壕の中にいたので、傷は負わなかったが、やはり五日目から熱を出し、やがて皮下に小豆色の出血点があらわれ、恐ろしい急性原子病の症状を示してきた。私は診察して、助からぬと判定した。そして心の中で、この子がこれで死ねば、この子も辛く苦しい人生を送らなくてすむし、復員してくる父親も、何の妨げもなく新しい家庭を持つであろうし、実家の人びともほっとするし、八方めでたくおさまるわい、と思った。したがって治療にも特別に気をつかわず、ただ対症的にやっただけだった。男の子は苦しみながら五日ほど後に死んだ。この子はついに父の顔も母の顔も知らずにこの世を去った」

「二人の子供が元気なものだから、田川君は親類を訪ねて三里の道を下っていった。そこで伸治君の五体に原子病は突然あらわれてきた。親の見ておれぬ苦しみであったそうな。だが、この子のもっていたしっかりした信仰は、あらゆる肉体の苦痛をかえって美しき花束にかえて、その臨終を飾った。田川君はわが子の神聖な臨終を見て、たちどころに真の信仰を悟った。――  それは伸治君が四年生のときであった。  それからのち、田川君はしきりに誠一に会いたがった。そして一方にはまた、会えば悲しくなるので、会うたあとでは、会わねばよかったと思うと、私に打ち明けたことがある。なんだか、伸治君にかけていた期待を誠一に移したようなかっこうであった。  死児の齢を数える、と言って笑うものがあるが、わが子を亡くしたことのない人の冷たい言葉であろう。生きていたら、あの子も中学校へ入る、と思えば、つい帽子屋へ入って新しい帽子を手にとってみよう。……  片岡君の長男も同じ年ごろだった。そしてやっぱりあの日に死んだ。片岡君はもう中学へゆく子はいなかったけれども、もし生きていたらどの学校へ入れたであろうかと、どの学校も調べ上げて来たのだった。そして同じ期待を誠一に移しているらしかった。  どうかすると、片岡君と田川君との誠一に対する期待と愛情とは、私以上に大きいのではあるまいか、と思うほどである。  子を亡くして初めて子に対する愛は深まり、親と別れていよいよ孝情が深まるものか」

「世の中には豪傑ぶって、おれは金もいらぬ、名誉もいらぬ、学位もいらぬ、生命もいらぬ、と大きなことを言い、何もせずに貧乏している男がよくいるものだが、金もうけもできず、名誉ある地位にも登れず、勉強もしたくないくせに、口先だけ偉そうに威張っている怠け者が多い。金はいらぬ、と言い得る人は、実際手の中に大金を持っている人でなければならぬ。学位はいらぬ、と言う人は、学位を与えられるだけの研究論文を発表しておらねばなら」

「神の前では学位も名誉も財産も意味はない、どんな職業も問題にならぬ。大臣であろうと教授であろうと、用務員であろうと守衛であろうと、まったく関係ない。要は、各人が与えられた才能を十分発揮する職業に就いて、神を愛し神に仕え、神のみ栄えをあらわしたのでありさえすれば、どんな職業でもかまわないというのである」

「死病にかかっている父、二人の幼い孤児予定者――これが如己堂の住人である。この三人の人間が生きてゆく正しい道はどこにあるのか? ――それを探して苦しみ悩み考え、祈り、努めてきた。私が考えたこと、子供たちがしたこと、子供に話したこと、今わかりそうにないから書いておいて後で読んでもらうこと――それを、そのままこの書に書いた。  これは私の家の記録である。公のものではない。世間一般に通用する考え方、生き方ではないかもしれない。しかし、孤児の親たち――あっと言う間もなく、愛する子を焼け跡に残して亡くなったあの人たちの魂は、あるいは共鳴してくれるかもしれぬと、ひそかに私は思うのである。もし共鳴する魂があれば、この書はその亡き人びとの代弁をつとめるであろう。  ここから見ていると、誠一は瓦のかけらをもっこで担いで捨てに行くところ、カヤノはつるばらの花を有田焼のかけらに盛って独りでままごとをしている。この兄妹が大きくなってから、私の考えをどう批判するだろうか? 五十年もたてば、今の私よりずっと年上になるのだから、二人寄ってこの書をひらき、お父さんの考えも若かったのう、などと義歯を鳴らして語り合うかもしれないな」

戦前から終戦直後にかけて活躍した医学博士、永井隆の手記。大日本雄辯会講談社から1949(昭和24)年に刊行された。放射線技師であった著者は過酷な業務による被曝により白血病となり、さらに長崎に投下された原子爆弾によって被爆し、妻を亡くす。自らの身体を研究材料として放射線の影響を研究しながらも、幼い二人の子供を残して死なねばならない無念を綴っている。後に木下恵介監督により映画化され、1983(昭和58)年に公開された。

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Posted by NI-Lab. (@nilab)