夏目漱石「こころ」 - 76ページ
Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇《くらやみ》に帰りました。私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。私はそれぎり何も知りません。しかし翌朝《よくあさ》になって、昨夕《ゆうべ》の事を考えてみると、何だか不思議でした。私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。それで飯《めし》を食う時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだといいます。なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に判然《はっきり》した返事もしません。調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。私は何だか変に感じました。
その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに宅《うち》を出ました。今朝《けさ》から昨夕の事が気に掛《かか》っている私は、途中でまたKを追窮《ついきゅう》しました。けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。Kはそうではないと強い調子でいい切りました。昨日《きのう》上野で「その話はもう止《や》めよう」といったではないかと注意するごとくにも聞こえました。Kはそういう点に掛けて鋭い自尊心をもった男なのです。ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想し出しました。すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を抑《おさ》え始めたのです。
四十四
「Kの果断に富んだ性格は私《わたくし》によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔《ゆうじゅう》な訳も私にはちゃんと呑《の》み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫《つら》まえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭のなかで何遍《なんべん》も咀嚼《そしゃく》しているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら揺《うご》き始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべての疑惑、煩悶《はんもん》、懊悩《おうのう》、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに畳《たた》み込んでいるのではなかろうかと疑《うたぐ》り始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺《なが》め返してみた私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう一返《いっぺん》彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻《みまわ》したらば、まだよかったかも知れません。悲しい事に私は片眼《めっかち》でした。私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図《いちず》に思い込んでしまったのです。
私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間《ま》に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極《き》めました。私は黙って機会を覘《ねら》っていました。しかし二日|経《た》っても三日経っても、私はそれを捕《つら》まえる事ができません。私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといった風《ふう》の日ばかり続いて、どうしても「今だ」と思う好都合が出て来てくれないのです。私はいらいらしました。
一週間の後《のち》私はとうとう堪え切れなくなって仮病《けびょう》を遣《つか》いました。奥さんからもお嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事《なまへんじ》をしただけで、十時|頃《ごろ》まで蒲団《ふとん》を被《かぶ》って寝ていました。私はKもお嬢さんもいなくなって、家の内《なか》がひっそり静まった頃を見計《みはか》らって寝床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。食物《たべもの》は枕元《まくらもと》へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。身体《からだ》に異状のない私は、とても寝る気にはなれません。顔を洗っていつもの通り茶の間で飯《めし》を食いました。その時奥さんは長火鉢《ながひばち》の向側《むこうがわ》から給仕をしてくれたのです。私は朝飯《あさめし》とも午飯《ひるめし》とも片付かない茶椀《ちゃわん》を手に持ったまま、どんな風に問題を切り出したものだろうかと、そればかりに屈托《くったく》していたから、外観からは実際気分の好《よ》くない病人らしく見えただろうと思います。
私は飯を終《しま》って烟草《タバコ》を吹かし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢の傍《そば》を離れる訳にゆきません。下女《げじょ》を呼んで膳《ぜん》を下げさせた上、鉄瓶《てつびん》に水を注《さ》したり、火鉢の縁《ふち》を拭《ふ》いたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。私は実は少し話したい事があるのだといいました。奥さんは何ですかといって、私の顔を見ました。奥さんの調子はまるで私の気分にはいり込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。