夏目漱石「こころ」 - 75ページ


 私がこういった時、背《せい》の高い彼は自然と私の前に萎縮《いしゅく》して小さくなるような感じがしました。彼はいつも話す通り頗《すこぶ》る強情《ごうじょう》な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない質《たち》だったのです。私は彼の様子を見てようやく安心しました。すると彼は卒然《そつぜん》「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」と付け加えました。彼の調子は独言《ひとりごと》のようでした。また夢の中の言葉のようでした。
 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川《こいしかわ》の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋《さび》しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味《あおみ》を失った杉の木立《こだち》の茶褐色《ちゃかっしょく》が、薄黒い空の中に、梢《こずえ》を並べて聳《そび》えているのを振り返って見た時は、寒さが背中へ噛《かじ》り付いたような心持がしました。我々は夕暮の本郷台《ほんごうだい》を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向うの岡《おか》へ上《のぼ》るべく小石川の谷へ下りたのです。私はその頃《ころ》になって、ようやく外套《がいとう》の下に体《たい》の温味《あたたかみ》を感じ出したぐらいです。
 急いだためでもありましょうが、我々は帰り路《みち》にはほとんど口を聞きませんでした。宅《うち》へ帰って食卓に向った時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。私はKに誘われて上野《うえの》へ行ったと答えました。奥さんはこの寒いのにといって驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。平生《へいぜい》から無口なKは、いつもよりなお黙っていました。奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、碌《ろく》な挨拶《あいさつ》はしませんでした。それから飯《めし》を呑《の》み込むように掻《か》き込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の室《へや》へ引き取りました。

     四十三

「その頃《ころ》は覚醒《かくせい》とか新しい生活とかいう文字《もんじ》のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意《いちい》に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊《たっと》い過去があったからです。彼はそのために今日《こんにち》まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって、決してその愛の生温《なまぬる》い事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾烈《しれつ》な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留《とど》まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路《みち》を今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には現代人のもたない強情《ごうじょう》と我慢がありました。私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。
 上野《うえの》から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜《よ》でした。私はKが室《へや》へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍《そば》に坐《すわ》り込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑そうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳《かざ》した後《あと》、自分の室に帰りました。外《ほか》の事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対してもっていたのです。
 私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖《ふすま》が二|尺《しゃく》ばかり開《あ》いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵《よい》の通りまだ燈火《あかり》が点《つ》いているのです。急に世界の変った私は、少しの間《あいだ》口を利《き》く事もできずに、ぼうっとして、その光景を眺《なが》めていました。
 その時Kはもう寝たのかと聞きました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師《かげぼうし》のようなKに向って、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。Kは洋燈《ランプ》の灯《ひ》を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。


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