夏目漱石「こころ」 - 67ページ
たしか十月の中頃と思います。私は寝坊《ねぼう》をした結果、日本服《にほんふく》のまま急いで学校へ出た事があります。穿物《はきもの》も編上《あみあげ》などを結んでいる時間が惜しいので、草履《ぞうり》を突っかけたなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子《こうし》をがらりと開けたのです。するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように手数《てかず》のかかる靴を穿《は》いていないから、すぐ玄関に上がって仕切《しきり》の襖《ふすま》を開けました。私は例の通り机の前に坐《すわ》っているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。私はあたかもKの室《へや》から逃《のが》れ出るように去るその後姿《うしろすがた》をちらりと認めただけでした。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さんは始めてお帰りといって私に挨拶《あいさつ》をしました。私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような捌《さば》けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。お嬢さんはすぐ座を立って縁側伝《えんがわづた》いに向うへ行ってしまいました。しかしKの室の前に立ち留まって、二言《ふたこと》三言《みこと》内と外とで話をしていました。それは先刻《さっき》の続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。
そのうちお嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。Kと私がいっしょに宅《うち》にいる時でも、よくKの室《へや》の縁側へ来て彼の名を呼びました。そうしてそこへ入って、ゆっくりしていました。無論郵便を持って来る事もあるし、洗濯物を置いてゆく事もあるのですから、そのくらいの交通は同じ宅にいる二人の関係上、当然と見なければならないのでしょうが、ぜひお嬢さんを専有したいという強烈な一念に動かされている私には、どうしてもそれが当然以上に見えたのです。ある時はお嬢さんがわざわざ私の室へ来るのを回避して、Kの方ばかりへ行くように思われる事さえあったくらいです。それならなぜKに宅を出てもらわないのかとあなたは聞くでしょう。しかしそうすれば私がKを無理に引張《ひっぱ》って来た主意が立たなくなるだけです。私にはそれができないのです。
三十三
「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私《わたくし》は外套《がいとう》を濡《ぬ》らして例の通り蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》を抜けて細い坂路《さかみち》を上《あが》って宅《うち》へ帰りました。Kの室は空虚《がらんどう》でしたけれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳《かざ》そうと思って、急いで自分の室の仕切《しき》りを開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く残っているだけで、火種《ひだね》さえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。
その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。それから私が寒いというのを聞いて、すぐ次の間《ま》からKの火鉢を持って来てくれました。私がKはもう帰ったのかと聞きましたら、奥さんは帰ってまた出たと答えました。その日もKは私より後《おく》れて帰る時間割だったのですから、私はどうした訳かと思いました。奥さんは大方《おおかた》用事でもできたのだろうといっていました。