夏目漱石「こころ」 - 47ページ


 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好《い》い顔をして私を自分の懐《ふところ》に抱《だ》こうとしません。それでも鷹揚《おうよう》に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母《おば》も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
 私の性分《しょうぶん》として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍《にぶ》い私の眼を洗って、急に世の中が判然《はっきり》見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくなった後《あと》でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっともその頃《ころ》でも私は決して理に暗い質《たち》ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊《かたま》りも、強い力で私の血の中に潜《ひそ》んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪《ひざまず》きました。半《なかば》は哀悼《あいとう》の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
 私の世界は掌《たなごころ》を翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。何遍《なんべん》も自分の眼を疑《うたぐ》って、何遍も自分の眼を擦《こす》りました。そうして心の中《うち》でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気《いろけ》の付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目《めくら》の眼が忽《たちま》ち開《あ》いたのです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
 私が叔父《おじ》の態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然《がぜん》として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先《ゆくさき》がどうなるか分らないという気になりました。

     八

「私は今まで叔父|任《まか》せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母《ちちはは》に対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体《からだ》だと自称するごとく、毎晩同じ所に寝泊《ねとま》りはしていませんでした。二日|家《うち》へ帰ると三日は市《し》の方で暮らすといった風《ふう》に、両方の間を往来《ゆきき》して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖《くちくせ》のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の掛《か》かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕《つら》まえる機会を得ませんでした。
 私は叔父が市の方に妾《めかけ》をもっているという噂《うわさ》を聞きました。私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪《あや》しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚《おぼ》えのない私は驚きました。友達はその外《ほか》にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他《ひと》から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
 私はとうとう叔父《おじ》と談判を開きました。談判というのは少し不穏当《ふおんとう》かも知れませんが、話の成行《なりゆ》きからいうと、そんな言葉で形容するより外に途《みち》のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑《さいぎ》の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。


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