ゲームプレイ動画、やっぱり高い音がキーンと鳴っているのがかなり気になるのでいったん非公開にしておく。
ゲームプレイを録画したもの、高い音がキーンと鳴っているのでなんとかしたいな・・・
天幕のジャードゥーガル 4巻を読了。
「対金戦争の英雄・トルイが没し、直接の仇だった人物の突然の死に動揺するファーティマ。歪なまま保たれていた帝国の勢力図が一変する。一方、急接近中の帝国第一皇后・ボラクチンから「知恵を存分に使って共にこれからの帝国を作ろう」とスカウトされ一瞬揺らぐファーティマだが、状況に違和感を覚え、大カアンに毒を盛った容疑で連行されたドレゲネを救出するため走りだす。」
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「後宮では、賢さこそが美しさ。13世紀、地上最強の大帝国「モンゴル帝国」の捕虜となり、後宮に仕えることになった女・ファーティマは、当時世界最高レベルの医療技術や科学知識を誇るイランの出身。その知識と知恵を持ち、自分の才能を発揮できる世界を求めていたファーティマは、現皇帝・オゴタイの第6夫人でモンゴル帝国に複雑な思いを抱く女・ドレゲネと出会う──。歴史マンガの麒麟児・トマトスープが紡ぐ、大帝国を揺るがす女ふたりのモンゴル後宮譚!」
『天幕のジャードゥーガル』トマトスープ | Souffle(スーフル) https://souffle.life/author/tenmaku-no-ja-dougal/
「ファーティマ・ハトゥン(ペルシア語: Fāṭima khātūn、中国語: 法提玛、? - 1246年)は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えたマシュハド出身の女性。モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイ・カアン没後に皇后ドレゲネの側近として活躍したが、後に失脚し「呪術使い」として凄惨な処刑を受けたことで知られる。ファティマ・ハトンとも」
「『世界征服者史』はファーティマの罪状を明らかにするためにマシュハドまで使者が派遣され、ファーティマの関係者は弾圧を受けたと記している。遠い生まれ故郷での調査や苛烈な拷問による自白を必要としたことは、ファーティマが「呪術を行った」という罪状の証拠が乏しかったことを示唆しており、この事件の本質は「呪術使いの処刑」ではなく「モンゴル宮廷内の派閥争い」にあったと考えられる」
ファーティマ・ハトゥン - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%B3
「ドレゲネ(モンゴル語:ᠲᠦᠷᠭᠡᠨᠡ、転写: Töregene、? - 1246年)は、モンゴル帝国の第2代皇帝(カアン)オゴデイの第6夫人で、第3代皇帝グユクの生母。漢字表記では脱列哥那、禿納吉納。ペルシア語表記ではトゥラキナ・ハトゥン(ペルシア語: توراكنه خاتون 、転写: Tūrākina khātūn)などと綴られる。諡号は昭慈皇后。史料によっては、トレゲネと書かれることもある」
「ラシードゥッディーンの『集史』の記述によれば、ナイマン部の出身で、最初はチンギス・カンの第2皇后となったクラン・ハトゥンの父でウハズ・メルキト(Uvas Mergid)部族長のダイル・ウスン(Dair Usun)の妃であったが、チンギス・カンのメルキト討伐によって捕らえられ、オゴデイの夫人となった」
ドレゲネ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B2%E3%83%8D
「クラン(Qulan,モンゴル語: Хулан Хатан, 中国語: 忽蘭)は、ウハズ・メルキト部族長ダイル・ウスンの娘で、チンギス・カンの妻(ハトゥン)の一人。チンギス・カンの妻の中では第一夫人ボルテに次ぐ地位を持ち、「チンギス・カンの第二オルド」を管理した」
「1204年、モンゴリアの大部分を制圧したテムジン(チンギス・カン)に対してモンゴリア西方でナイマン部、メルキト部などの反テムジン勢力が結集し、モンゴル軍との決戦が行われた。結果としてモンゴル軍が勝利し多くの部族が投降する中で、メルキト部は部族長トクトア・ベキに率いられて逃れたものの、同年冬にセレンガ川の支流でモンゴル軍に再び捕捉・撃破された。この敗戦の中、ウアス・メルキトの部族長ダイル・ウスンは自分の娘クランを伴ってチンギス・カンの下を訪れ投降しようとした」
クラン (メルキト部) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3_(%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%88%E9%83%A8)
「トルイ(モンゴル語:ᠲᠤᠯᠤᠢ、Tolui、 1192年 - 1232年)は、チンギス・カンの四男。漢文史料では拖雷、ペルシア語史料ではتولى خان (tūluy khān) またはتولوى خان (tūlūy khān)と表記され 、現代モンゴル語ではТулуй, Tuluiと綴られる」
トルイ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%A4
「トルイは右翼軍の司令官として金領西部の山間部に侵攻し、1232年に完顔陳和尚率いる金軍を三峰山の戦いで破って金の主力を壊滅させる戦功をあげた」
「しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死した。深酒のためと言われるが、『集史』、『元史』といったモンゴル時代の基本史料はいずれも「病に罹ったオゴデイの身代わりとなるために、呪いのかかった酒を飲み干して死んだ」とする逸話を伝える。『集史』および『元史』の原史料である『元朝実録』はいずれもトルイの子孫の政権で編まれた史料で、なおかつほぼ同時期に編纂された「国家編纂物」であり、「政権運営に大過なかったオゴデイを明確に否定はしないが、トルイ家こそが正統な支配者であると強調する」トルイ一族の見解が反映されたものと指摘されている。トルイの急死を、弟の人望と功績を恐れた兄オゴデイによる謀殺とみる説もある」
「トルイの莫大な遺産はケレイト部族出身の妃ソルコクタニ・ベキを経て、両人の息子モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケの4子に継承」
「ソルコクタニ・ベキ(モンゴル語:ᠰᠣᠷᠬᠠᠭᠲᠠᠨᠢᠪᠡᠬᠢ 転写: sölköktani beki、ペルシア語: سرقویتی بیگی 転写: srquyti bigi、中: 唆魯禾帖尼、キリル文字転写: Сорхагтани、1190年? - 1252年3月1日)は、チンギス・カンの四男のトルイの正妃」
「ケレイト部族の王であったオン・カン(トグリル)の実弟のジャカ・ガンボ(ケレイテイ)の三女。長姉がチンギス・カンの妃になっているため、チンギス・カンの義妹にもあたる」
ソルコクタニ・ベキ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%AD
「ソルコクタニ・ベキはトルイと仲が良く、この間に4人の男児に恵まれている。1232年に夫が急死すると、長男のモンケにトルイ家を継がせ、自らはその後見役のような立場となった。1241年に第2代モンゴル皇帝オゴデイが死去して次代の皇帝位をめぐる争いが起こると、オゴデイの長男のグユクが生母のドレゲネの強い支持を受けて1246年に第3代のモンゴル皇帝として即位する。しかしジョチ家の当主のバトゥやモンケとその母であるソルコクタニ・ベキらはこの即位に不満を持ち、ソルコクタニ・ベキはバトゥと密かに連絡を取り合って密約を交わしたりしたという。1248年4月にグユクは急死を遂げているが、ビシュバリク方面にグユクが遠征しているのを警戒するようにとバトゥに知らせ、それを受け取ったバトゥがグユクを暗殺したという説もある」
「オゴデイ(Ögödei、Ögedei)は、モンゴル帝国の第2代皇帝(カアン、ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa'an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている」
「チンギス・カンの三男。母はボルテ。ジョチ、チャガタイの弟、トルイの兄」
「父帝・チンギス・カンに従ってモンゴル統一や金遠征、大西征に従った。特に大西征においてはホラズム・シャー朝の討伐で戦功を挙げ、その功績によりナイマン部の所領を与えられた(オゴデイ・ウルス)。オゴデイにはジョチとチャガタイという2人の有能な兄がいたが、ジョチは出生疑惑をめぐるチャガダイとの不和から、チャガタイは気性が激しすぎるところからチンギス・カンから後継者として不適格と見なされていた。オゴデイは温厚で、一族の和をよくまとめる人物であったため、父から後継者として指名された」
オゴデイ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B4%E3%83%87%E3%82%A4
「ボラクチン(モンゴル語: Boraqčin qatun、生没年不詳)は、モンゴル帝国第2代皇帝(カアン)オゴデイの第1皇后(ハトゥン)。『元史』などの漢文史料では孛剌合真(Bólàgĕzhēn)、『集史』などのペルシア語史料ではبوراقچین خاتون(Būrāqchīn khātūn)と記される」
「『集史』「オゴデイ・カアン紀」では第1の妃(Khātūn-i avval)で「全皇后たちのうちで最も年上であった」と記され、また『元史』巻106后妃表でも「正宮孛剌合真皇后」と記されるなど、オゴデイの妃の中でも最も地位の高い女性であった。しかし、『集史』では出身部族名や父親名が空欄となっており、その出自については不明な点が多い」
ボラクチン (オゴデイ皇妃) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3_(%E3%82%AA%E3%82%B4%E3%83%87%E3%82%A4%E7%9A%87%E5%A6%83)
「モゲ・カトン(モンゴル語: Möge qatun、生没年不詳)は、モンゴル帝国第2代皇帝(カアン)オゴデイの后妃の一人。東部天山山脈に住まうメクリン部の出身。『集史』などのペルシア語史料ではموکای خاتون(mūkāī khātūn)と記される」
「『集史』「オゴデイ・カアン紀」第一部では正后ボラクチン・カトンとドレゲネ・カトンの次に名前が挙げられ、また『元史』巻106表1后妃表では「二皇后」と呼称されており、オゴデイ后妃の中でも高位にあったと見られる」
「『集史』「メクリン部族志」によると、メクリン部族の頭領がモンゴル帝国に帰順した際、チンギス・カンに差し出したのがモゲ・カトンだったという。チンギス・カンはモゲ・カトンを寵愛したが、子供はできなかったとされる」
モゲ (オゴデイ皇妃) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B2_(%E3%82%AA%E3%82%B4%E3%83%87%E3%82%A4%E7%9A%87%E5%A6%83)
「チンギス・カンの死後、後を継いだオゴデイはレビラト婚によってモゲ・カトンを娶り、非常に寵愛したためモゲ・カトンは他の妃に妬まれるほどであったという。オゴデイの兄のチャガタイもモゲ・カトンに目をつけており、オゴデイがモゲ・カトンを娶ったことを知らなかったチャガタイは使者を送って自分の后妃となるよう要求した。そこでオゴデイはモゲ・カトンは既に自分が娶っており、他に気に入った女性がそちらを与えようと答えたが、チャガタイは自分が気に入ったのはモゲ・カトンであって、その他の女性ならば望まないと答えたとされる」
「クビライ(漢字:忽必烈、モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第5代皇帝であり、元朝の初代皇帝(カアン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写ではХубилай хаан。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān など書かれる」
クビライ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%93%E3%83%A9%E3%82%A4
「1215年にチンギス・カンの四男のトルイの子として生まれた。母はケレイト部族出身のトルイの正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となったモンケ、弟にイルハン朝を開いたフレグ、クビライとモンゴル皇帝(カアン)位を争ったアリクブケがいる」
「1902年(明治35年)11月に当時の文部省が出版した『外国地名及人名取調一覧』には、Kublai(Khubilai)の日本語訳としてフビライ[忽必烈]と記載されているが、同年12月に出版された『日本歴史教科書 下』にはクビライと記載されており、この時点で既にカタカナ表記に揺れが生じていることがわかる」
「2020年代までは日本の教科書ではフビライの単独表記もしくはフビライ(クビライ)の並列表記がほとんどであり、クビライの単独表記はほとんど見られなかったが、2023年度以降版の高校世界史探究教科書のうち、山川出版社『詳説世界史』『高校世界史』『新世界史』や帝国書院『新詳世界史探究』などにはクビライの単独表記が見られるようになっている。ただし、同じ帝国書院の2022年度以降版高校歴史総合教科書である『明解歴史総合』ではフビライの単独表記になっているなど、同じ出版社であっても著作者の違いによって表記が異なる場合が見られる」
「『天幕のジャードゥーガル』(てんまくのジャードゥーガル、A Witch's Life in Mongol)は、トマトスープによる日本の漫画。WEBコミックサイト『Souffle』(秋田書店)にて、2021年9月25日から連載中」
「モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイの第六皇后ドレゲネの側近として仕えたファーティマ・ハトゥンを題材としている。2023年度のこの「このマンガがすごい! オンナ編」で第1位を獲得した。歴史物が同ランキングで1位を獲得したのは初となる」
「題名の「ジャードゥーガル」はペルシア語で「魔術師」・「魔女」を意味する(جادوگر, 現代ペルシア語発音:[d͡ʒɒː.d̪uː.ɡʲæɹ], ジャードゥーギャル)」
天幕のジャードゥーガル - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B9%95%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%AB
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