夏目漱石「こころ」 - 71ページ
その内《うち》私の頭は段々この静かさに掻《か》き乱されるようになって来ました。Kは今襖の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になって堪《たま》らないのです。不断もこんな風《ふう》にお互いが仕切一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。それでいて私はこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。一旦《いったん》いいそびれた私は、また向うから働き掛けられる時機を待つより外《ほか》に仕方がなかったのです。
しまいに私は凝《じっ》としておられなくなりました。無理に凝としていれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。私は仕方なしに立って縁側へ出ました。そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄瓶《てつびん》の湯を湯呑《ゆのみ》に注《つい》で一杯呑みました。それから玄関へ出ました。私はわざとKの室を回避するようにして、こんな風に自分を往来の真中に見出《みいだ》したのです。私には無論どこへ行くという的《あて》もありません。ただ凝《じっ》としていられないだけでした。それで方角も何も構わずに、正月の町を、むやみに歩き廻《まわ》ったのです。私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。私もKを振《ふる》い落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼《そしゃく》しながらうろついていたのです。
私には第一に彼が解《かい》しがたい男のように見えました。どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募《つの》って来たのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。私は彼の強い事を知っていました。また彼の真面目《まじめ》な事を知っていました。私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くをもっていると信じました。同時にこれからさき彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室に凝《じっ》と坐《すわ》っている彼の容貌《ようぼう》を始終眼の前に描《えが》き出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底できないのだという声がどこかで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は永久彼に祟《たた》られたのではなかろうかという気さえしました。
私が疲れて宅《うち》へ帰った時、彼の室は依然として人気《ひとけ》のないように静かでした。
三十八
「私が家へはいると間もなく俥《くるま》の音が聞こえました。今のように護謨輪《ゴムわ》のない時分でしたから、がらがらいう厭《いや》な響《ひび》きがかなりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。
私が夕飯《ゆうめし》に呼び出されたのは、それから三十分ばかり経《た》った後《あと》の事でしたが、まだ奥さんとお嬢さんの晴着《はれぎ》が脱ぎ棄《す》てられたまま、次の室を乱雑に彩《いろど》っていました。二人は遅くなると私たちに済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。しかし奥さんの親切はKと私とに取ってほとんど無効も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のように、素気《そっけ》ない挨拶《あいさつ》ばかりしていました。Kは私よりもなお寡言《かげん》でした。たまに親子連《おやこづれ》で外出した女二人の気分が、また平生《へいぜい》よりは勝《すぐ》れて晴れやかだったので、我々の態度はなおの事眼に付きます。奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。私は少し心持が悪いと答えました。実際私は心持が悪かったのです。すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました。Kは私のように心持が悪いとは答えません。ただ口が利《き》きたくないからだといいました。お嬢さんはなぜ口が利きたくないのかと追窮《ついきゅう》しました。私はその時ふと重たい瞼《まぶた》を上げてKの顔を見ました。私にはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。Kの唇は例のように少し顫《ふる》えていました。それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。お嬢さんは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。Kの顔は心持薄赤くなりました。
その晩私はいつもより早く床《とこ》へ入りました。私が食事の時気分が悪いといったのを気にして、奥さんは十時頃|蕎麦湯《そばゆ》を持って来てくれました。しかし私の室《へや》はもう真暗《まっくら》でした。奥さんはおやおやといって、仕切りの襖《ふすま》を細目に開けました。洋燈《ランプ》の光がKの机から斜《なな》めにぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きていたものとみえます。奥さんは枕元《まくらもと》に坐って、大方《おおかた》風邪《かぜ》を引いたのだろうから身体《からだ》を暖《あっ》ためるがいいといって、湯呑《ゆのみ》を顔の傍《そば》へ突き付けるのです。私はやむをえず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。