夏目漱石「こころ」 - 37ページ
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私《わたし》も実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
その頃《ころ》の新聞は実際|田舎《いなか》ものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父の枕元に坐って鄭寧《ていねい》にそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室《へや》へ持って来て、残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女《かんじょ》みたような服装《なり》をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹《き》や草を震わせている最中《さいちゅう》に、突然私は一通の電報を先生から受け取った。洋服を着た人を見ると犬が吠《ほ》えるような所では、一通の電報すら大事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのを傍《そば》に立って待っていた。
電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
「きっとお頼《たの》もうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や妹《いもと》の夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣《うちや》って、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤《きとく》に陥りつつある旨《むね》も付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細《いさい》手紙として、細かい事情をその日のうちに認《したた》めて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間《ま》の悪い時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。
十三
私《わたくし》の書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私|宛《あて》で届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
「大方《おおかた》手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」
母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から推《お》してみると、どうも変に思われた。「先生が口を探してくれる」。これはあり得《う》べからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」
私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。
その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸《かんちょう》などをして帰って行った。
父は医者から安臥《あんが》を命ぜられて以来、両便とも寝たまま他《ひと》の手で始末してもらっていた。潔癖な父は、最初の間こそ甚《はなは》だしくそれを忌《い》み嫌ったが、身体《からだ》が利《き》かないので、やむを得ずいやいや床《とこ》の上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経《ふ》るに従って、無精な排泄《はいせつ》を意としないようになった。たまには蒲団《ふとん》や敷布を汚して、傍《はた》のものが眉《まゆ》を寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、咽喉《のど》から下へはごく僅《わずか》しか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなった。枕《まくら》の傍《そば》にある老眼鏡《ろうがんきょう》は、いつまでも黒い鞘《さや》に納められたままであった。子供の時分から仲の好かった作《さく》さんという今では一|里《り》ばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨《うらや》ましいね。己《おれ》はもう駄目《だめ》だ」
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」