夏目漱石「こころ」 - 33ページ
学問をした結果兄は今|遠国《えんごく》にいた。教育を受けた因果で、私《わたくし》はまた東京に住む覚悟を固くした。こういう子を育てた父の愚痴《ぐち》はもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家《いなかや》の中に、たった一人取り残されそうな母を描《えが》き出す父の想像はもとより淋《さび》しいに違いなかった。
わが家《いえ》は動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ後《あと》、この孤独な母を、たった一人|伽藍堂《がらんどう》のわが家に取り残すのもまた甚《はなは》だしい不安であった。それだのに、東京で好《い》い地位を求めろといって、私を強《し》いたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭《かげ》でまた東京へ出られるのを喜んだ。
私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精《くわ》しく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもするから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。しかし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他《ひと》が気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好《い》い口がないとも限らないんだから、早く頼んでおくに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るに極《きま》ってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
私はこんな事に掛けて几帳面《きちょうめん》な先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待った。けれども私の予期はついに外《はず》れた。先生からは一週間|経《た》っても何の音信《たより》もなかった。
「大方《おおかた》どこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
私は母に向かって言訳《いいわけ》らしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対する言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は強《し》いても何かの事情を仮定して先生の態度を弁護しなければ不安になった。
私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。
八
九月始めになって、私《わたくし》はいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
私は父の希望する地位を得《う》るために東京へ行くような事をいった。
「無論口の見付かるまでで好《い》いですから」ともいった。
私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はまたあくまでもその反対を信じていた。
「そりゃ僅《わずか》の間《あいだ》の事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相当の地位を得《え》次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他《ひと》の世話になんぞなるものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていないようだね」
父はこの外《ほか》にもまだ色々の小言《こごと》をいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には早いだけが好《よ》かった。
「お母さんに日を見てもらいなさい」
「そうしましょう」
その時の私は父の前に存外《ぞんがい》おとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎《いなか》を出ようとした。父はまた私を引《ひ》き留《と》めた。
「お前が東京へ行くと宅《うち》はまた淋《さみ》しくなる。何しろ己《おれ》とお母さんだけなんだからね。そのおれも身体《からだ》さえ達者なら好《い》いが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」