夏目漱石「こころ」 - 25ページ
「先生は癇性《かんしょう》ですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と答えた事があった。それを傍《そば》に聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿《ばかばか》しい性分《しょうぶん》だ」といって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私には解《わか》らなかった。奥さんにも能《よ》く通じないらしかった。
その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布《たくふ》の前に坐《すわ》った。奥さんは二人を左右に置いて、独《ひと》り庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のために杯《さかずき》を上げてくれた。私はこの盃《さかずき》に対してそれほど嬉《うれ》しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因《げんいん》であった。けれども先生のいい方も決して私の嬉《うれ》しさを唆《そそ》る浮々《うきうき》した調子を帯びていなかった。先生は笑って杯《さかずき》を上げた。私はその笑いのうちに、些《ちっ》とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲《く》み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。
奥さんは私に「結構ね。さぞお父《とう》さんやお母《かあ》さんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
卒業証書の在処《ありどころ》は二人ともよく知らなかった。
三十三
飯《めし》になった時、奥さんは傍《そば》に坐《すわ》っている下女《げじょ》を次へ立たせて、自分で給仕《きゅうじ》の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来《しきた》りらしかった。始めの一、二回は私《わたくし》も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗《ちゃわん》を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「お茶? ご飯《はん》? ずいぶんよく食べるのね」
奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯《からか》われるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた近頃《ちかごろ》大変|小食《しょうしょく》になったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子《みずがし》を運ばせた。
「これは宅《うち》で拵《こしら》えたのよ」
用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞《ふるま》うだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯|更《か》えてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際《しきいぎわ》で背中を障子《しょうじ》に靠《も》たせていた。
私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的《あて》もなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお役人《やくにん》?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれが善《い》いか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと解《わか》らないんだから、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは必竟《ひっきょう》財産があるからそんな呑気《のんき》な事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
「碌《ろく》なかぶれ方をして下さらないのね」
先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅《つつじ》の咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰り途《みち》に、先生が昂奮《こうふん》した語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ凄《すご》い言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お宅《たく》の財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅《うち》へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」