夏目漱石「こころ」 - 14ページ
「じゃ先生がそう変って行かれる源因《げんいん》がちゃんと解《わか》るべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛《つら》いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍《なんべん》あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」
私は黙っていた。奥さんも言葉を途切《とぎ》らした。下女部屋《げじょべや》にいる下女はことりとも音をさせなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいった。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
奥さんは火鉢の灰を掻《か》き馴《な》らした。それから水注《みずさし》の水を鉄瓶《てつびん》に注《さ》した。鉄瓶は忽《たちま》ち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防《しんぼう》し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
奥さんは眼の中《うち》に涙をいっぱい溜《た》めた。
十九
始め私《わたくし》は理解のある女性《にょしょう》として奥さんに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓《ハート》を動かし始めた。自分と夫の間には何の蟠《わだか》まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を開《あ》けて見極《みきわ》めようとすると、やはり何《なん》にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。
奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的《えんせいてき》だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭《いや》になったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度はどこまでも良人《おっと》らしかった。親切で優しかった。疑いの塊《かたま》りをその日その日の情合《じょうあい》で包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観《じんせいかん》とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴《ちょうだい》」
私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。
「私には解《わか》りません」
奥さんは予期の外《はず》れた時に見る憐《あわ》れな表情をその咄嗟《とっさ》に現わした。私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生は嘘《うそ》を吐《つ》かない方《かた》でしょう」
奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
「先生がああいう風《ふう》になった源因《げんいん》についてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」
「どんな事ですか」
奥さんはいい渋って膝《ひざ》の上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと叱《しか》られるから。叱られないところだけよ」
私は緊張して唾液《つばき》を呑《の》み込んだ。
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好《い》いお友達が一人あったのよ。その方《かた》がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
奥さんは私の耳に私語《ささや》くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。