夏目漱石「こころ」 - 4ページ
始めて先生の宅《うち》を訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。晴れた空が身に沁《し》み込むように感ぜられる好《い》い日和《ひより》であった。その日も先生は留守であった。鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵《たいてい》宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由《わけ》もない不満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女《げじょ》の顔を見て少し躊躇《ちゅうちょ》してそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内《うち》へはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
私はその人から鄭寧《ていねい》に先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷《ぞうしがや》の墓地にある或《あ》る仏へ花を手向《たむ》けに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は会釈《えしゃく》して外へ出た。賑《にぎや》かな町の方へ一|丁《ちょう》ほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵《きびす》を回《めぐ》らした。
五
私《わたくし》は墓地の手前にある苗畠《なえばたけ》の左側からはいって、両方に楓《かえで》を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。するとその端《はず》れに見える茶店《ちゃみせ》の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡《めがね》の縁《ふち》が日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
先生は同じ言葉を二|遍《へん》繰り返した。その言葉は森閑《しんかん》とした昼の中《うち》に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも応《こた》えられなくなった。
「私の後《あと》を跟《つ》けて来たのですか。どうして……」
先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中《うち》には判然《はっきり》いえないような一種の曇りがあった。
私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰《だれ》の墓へ参りに行ったか、妻《さい》がその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」
先生はようやく得心《とくしん》したらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解《わか》らなかった。
先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々《イサベラなになに》の墓だの、神僕《しんぼく》ロギンの墓だのという傍《かたわら》に、一切衆生悉有仏生《いっさいしゅじょうしつうぶっしょう》と書いた塔婆《とうば》などが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫《ほ》り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。
先生はこれらの墓標が現わす人種々《ひとさまざま》の様式に対して、私ほどに滑稽《こっけい》もアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い墓石《はかいし》だの細長い御影《みかげ》の碑《ひ》だのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面目《まじめ》に考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
墓地の区切り目に、大きな銀杏《いちょう》が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢《こずえ》を見上げて、「もう少しすると、綺麗《きれい》ですよ。この木がすっかり黄葉《こうよう》して、ここいらの地面は金色《きんいろ》の落葉で埋《うず》まるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。
向うの方で凸凹《でこぼこ》の地面をならして新墓地を作っている男が、鍬《くわ》の手を休めて私たちを見ていた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
これからどこへ行くという目的《あて》のない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより口数を利《き》かなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行った。
「すぐお宅《たく》へお帰りですか」
「ええ別に寄る所もありませんから」
二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
「いいえ」
「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」
「いいえ」
先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一|町《ちょう》ほど歩いた後《あと》で、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
「お友達のお墓へ毎月《まいげつ》お参りをなさるんですか」
「そうです」
先生はその日これ以外を語らなかった。
六
私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数《どすう》が重なるにつれて、私はますます繁《しげ》く先生の玄関へ足を運んだ。